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20 2015/2

江戸時代の沖縄。。どんなんだったんでしょうね

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近世

江戸幕府の明通商計画

豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に、琉球へ兵糧米の供出を命じました。1603年に江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになろます。1602年に仙台藩領内に琉球船が漂着、徳川家康は彼等を送り返しました。以後、家康への謝恩使の派遣と、日明貿易の仲介が琉球王府に繰り返し要求されたが、王府は謝名親方の反日思想に引きずられ、幕府の要求を一貫して無視ししました。これを受け、幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩主島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可しました。

薩摩の侵攻

第二尚氏第7代尚寧の1609年3月4日、樺山久高ら島津軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆しました。3月8日に奄美大島へ上陸した。大島は薩摩に非常に協力的で、物資補給も行いまし。この時点で琉球王府は天龍寺長老を大島に派遣して降伏しようとしたが、何故か薩摩軍と接触せず、失敗した。3月17日に徳之島に13艘の先発隊が到達、一部で戦闘があったが速やかに制圧されました。薩摩軍は3月26日、沖縄本島北部の運天港に到達。27日、今帰仁城に向かったが、既に無人であった。またこの日、西来院菊隠が今帰仁に到着、正式に降伏を申し出た。これを受け、那覇で和睦の談合を行う事が決定した。しかし樺山は内心、琉球を信用しておらず、念のため主力は陸路で首里に向かわせる事とした。29日、海路で大湾に移動。4月1日、薩摩軍は軍使を那覇に向かわせる一方、主力は陸路で首里へ向かい、午後2時頃到着した。那覇では和睦調印が行われたが、首里では、薩摩軍の侵入によって混乱が生じた。これに対し、薩摩軍軍使・市来織部と村尾笑栖が首里に移動して尽力し沈静化。最終的に、摂政・三司官を人質として引き渡すのと引き換えに、首里侵入軍は那覇に退去した。島津軍は4月5日に首里城を接収し、5月半ばに尚寧と共に薩摩に帰った。

翌1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。

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