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19 2015/2

琉球王朝。。すごい時代ですね!!

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このように明への朝貢は経済的負担が大きかったが、尚真王はこれに対し、領土を広げ、搾取を強化し、年貢収入を増大させる事で経済的基盤を安定させようと試みた。正史「球陽(141号)」に曰く、「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ」また「忠導氏家譜正統」には、「於是、請命、置役人、諸村令定毎丁賦数矣」とあり、仲宗根豊見親が中山の命令を請け、人頭税を定めた事が述べられています。八重山はこのような恐喝を拒絶したので、中山は公称3000(ただし船は46艘しかないので半分が妥当と思われる)の軍隊を派遣しこれを征伐した。その後しばらくの八重山統治体制については、史料が混乱しており不明瞭だが、とりあえず1524年に、園比屋武御嶽石門を作ったことで知られる西唐を竹富島に帰郷させ、蔵元(八重山一帯を担当する王府の行政出張機関)を設置させて以後は、蔵元を中心とする統治体制が確立した。奄美群島については、1447年、尚思達王が奄美大島を従わせ、1450年から1462年まで喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃していた。1466年、尚徳王が3000の兵をもって喜界島を制圧した。1537年には尚清王が、奄美大島の与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、後に讒言であると判明したためその子孫を採り立てています。1571年には尚元王が、再び反抗を始めた奄美大島の領主達を制圧しています。

このような年貢収入の増加と関連して、1600年頃に琉球米の本土への輸出という商売があった事が「琉球入ノ記」から窺える。既述の如く、中山の海外交易は史料上基本的に、明への朝貢か、朝貢用の物品購入に限られるが、これはその数少ない例外である。ただし輸出を請け負っているのは本土の七島衆です。またこの史料からは、本土からの借金を米で返そうとした事も分かります。ただし結局は、その米すら払わずに踏み倒そうとしています。尚真王が必死で搾取強化に取り組んだにも関わらず、王府の財政が全然好転しなかった事が窺えます。

「河充氏家譜」によれば、砂川親雲上旨屋によって、1597年に初めて宮古にサツマイモが導入された。1605年には本島にも野国総管により導入が行われました。八重山については、1694年、波照間高康によって行われている。サツマイモは琉球諸島全土の食糧事情を劇的に改善ししまた。宮古・八重山に至っては、米穀は全て王府に搾取されるため、薩摩芋とその葉っぱが唯一の食糧でありました。また人口も増大したが、その反面、子供が多いと人頭税の負担額が増えるため、八重山ではしばしば嬰児殺しによる人口調節が行われ、明治時代に人頭税が廃止されるまで続きました。野国総管の功績は現在も称えられている。因みに、薩摩にはその後1705年に琉球より伝来し、本土では琉球から来た芋としてリュウキュウイモ(琉球芋)と呼ばれ、現在はサツマイモの名称が定着しています。

一方、1500年代末期頃より島津氏が琉球に対する圧力を強めたため、琉球はその対応に迫られることとなりました。

この時代の記録は王府の外交文書の集成である『歴代宝案』に残されています。

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