沖縄、恩納村でダイビングやシュノーケルならブルーリンク

お問い合わせ
8:00~21:00(年中無休)コースやご予約、団体予約についてのご相談098-989-9147
当日のご予約、お急ぎの方はこちらから080-8374-2390

スタッフブログSTAFF BLOG

19 2015/2

第二尚氏王統

琉球の黄金時代

尚真王の治世は琉球の黄金時代でありました。

金丸は即位後尚円王と名乗り、第二尚氏王統が始まる。尚円王は在位7年で亡くなると、世子・真嘉戸樽(まかとたる)が幼かったので、弟の尚宣威王が即位しました。しかし、国王宣下の際に神官が真嘉戸樽に神託を読み上げるという屈辱を受け、尚宣威王は在位6か月で退位し、越来に引退した。その年の内に薨去したと伝えられました。

1477年に真嘉戸樽は王位に就き、第3代・尚真王として50年にわたって在位し、琉球の黄金時代を築きます。彼は仏僧の意見を取り入れ、王の死と共に行われてきた女官の殉死を廃止し、御嶽信仰を中心とした宗教を整備しました。さらに南山と北山の按司を首里に強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化を進めました。また国民が所有していた刀剣や弓矢を没収して、国家による武力の一元管理を行うことで国内の騒乱を防ぐと共に、国防の備えました。

第二尚氏は第一尚氏に引き続き、中国に対する朝貢と、進貢品を買うための貿易活動を行いました。この点については「海禁政策の間隙を突き、中国と東南アジアとの中継貿易を行った」と説明される事があるが、王府側見解にはそんな話は一切見られないです。実際、アルブケルケによれば、1511年時点で中国人商人はマラッカで普通に活動しており、その人口はむしろマレー人より多く最多であるとの事です。この頃の東南アジア貿易については、王府自身の説明は前時代と変わらず「品物が稀少であるのは深く便ならず(本國産物稀少缺乏貢物深爲未便)。だから買いに来ました[11]」としており、進貢品に乏しい内情を強調して、協力を求めています。このような朝貢の在り方について、1606年に尚寧冊封正使として来島した夏子陽は、王府の負担になっている事を指摘して、求めるべきではないとし、また中山の貢物は貧相なのが当たり前なので、貢物の良し悪しは問うべきではない、としています。また従来の二年一貢も、王府には出費が勝っている事実を指摘しています。夏子陽はまた、これら海外の産物は日本人から購入しているとも述べています。王府の東南アジア貿易の内情がどうだったのかは、不明な点が多いが、とりあえずこのような貿易について、王府にどれほどの利益があったのか、という根本的問題については、「歴代宝案」によれば、60年間毫も利益が入らない、と王府自身が述べています。

pageTop