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19 2015/2

第一尚氏王統

初代琉球国王尚巴志王は首里城を王都とした。彼の死後に第2代琉球国王に就いた尚忠王は在位5年で死去、第3代琉球国王は尚忠の息子尚思達王だが在位4年で死去、思達は子が無く、叔父の尚金福王(巴志の六男)が第4代琉球国王となるが彼も在位4年で死去した。金福の後継を巡って息子の尚志魯と弟の尚布里が争った結果、首里城は焼失、明からの「琉球国王之印」も失った上、両者相討ちとなった(志魯・布里の乱)。ここで巴志の7男である尚泰久が明へ使者を送り、国王印を下賜されて第5代王位に就いました。

尚泰久王はそれまで島だった那覇と本島を結ぶ長虹堤を建設したが、工事がうまくいかないことから1451年に天照大神を日本本土から招き、祈願したところ完成したため、沖縄県内において最初の神社「長寿宮」を建立した。続いて「波上宮」を初めとして琉球八社といわれる神社が整備されました。また彼は「万国津梁之鐘」を鋳造し、日本僧芥陰に選ばせた文章を鐘に刻み付け、「異産至宝は十方刹に充満せり」とした。1458年に完成すると在位7年で死去した。この鐘は復元され、現在も首里城にあります。

尚泰久王の子である尚徳王は在位9年で急死すます。法司(後の三司官)は尚徳王の世子を王に推挙しようとしたが、安里大親がこれを押しとどめて、重臣たちを前にして、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)を次期王に推挙した。重臣たちはこの提案に賛同し、これによって、金丸が1470年、国王に即位しました。金丸は、1472年には明から冊封使が派遣され、中山王に封じられた。金丸が即位した経緯については、正史の記述のほかに、クーデターだったのではないかとの説があり、実際に金丸によって第一尚氏王統の王族はほとんどが殺害されています。

この時代の交易関係については、尚泰久王は「異産至宝は十方刹に充満せり」と称しているが、「歴代宝案」においては「本国は貢物が稀少です」と一貫して述べられており、異産至宝はあっても貢物は少なかった事が分かります。両者の整合性については不明だが、とりあえず「異産至宝」が充満しているとは述べられているが、それが王府の所有物だとは一言も述べられていない点は指摘できあます。

また尚徳王は、1465年に明に対し、概略次のように述べています。「近年、我が方の附搭貨物に対しては、絹物が給されていますが、お蔭で銅銭が欠乏して貢物が買えません。我が国の産物は馬と硫黄だけで他の物は他国から購入しております。どうか銅銭を給してください」王府が厳しい懐事情をやりくりして、懸命に朝貢を続ける様子が窺えます。

 

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