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18 2015/2

沖縄の歴史は深いですな!面白いですよ!!

グスク時代

グスク跡(世界遺産

12世紀ごろから琉球でも稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、文明の度合いが色濃くなってきました。農耕を基盤とした社会が成立すると、集落は海岸部から農耕に適した台地に移る(貝塚時代後期後半には遺跡が台地上に移行います)。この時代をグスク時代と呼ぶ。

この時代は日本本土や中国大陸との交流が盛んで、中国だけでなく東南アジアの陶磁器も輸入されており、アジア貿易の中継点としての重要性をましてきました。これらで力をつけた有力者は地元の農民を束ねて豪族(按司・あじ)となり、石垣で囲まれた(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展しました。舜天英祖といった王朝初期の王も、この頃の有力な按司のことであったと考えられます。日本から平仮名が導入され(1265年に日本僧禅鑑が伝えたとも言われます)、表音文字として文書全般に利用されたほか、中国や東南アジアとの交流もあり、これらが融合してその後の琉球文化の基となりました。琉球の信仰ノロといわれる女性祭司の力が非常に強いシャーマニズム的なもので、古い神道にも近い要素があります。後に仏教も伝来しました。

1291年元軍が襲撃した「瑠求」は台湾のことであり、元軍を英祖王が撃退したという話は「瑠求=琉球」と誤認したことから生じた空想です。

三山時代

三山時代の勢力図

14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまりました。英祖王統を滅ぼした察度が治める中部の中山、承察度が治める南部の南山(山南)、怕尼芝が治める北部の北山(山北)です。この時代を三山時代と呼び、約100年。いずれも中国の朝に朝貢し、正当性を主張するなどして争いあったが、その中から察度の子・武寧を滅ぼした尚巴志の中山が勢力を増し、統一への動きを見せました。

三山の中で、南山の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばし、まず1406年に中山王武寧を滅ぼして、尚巴志の父である尚思紹を中山王につかせて基盤を固め、その後、1416年に山北(北山)王の攀安知を滅ぼし、その領土であった奄美群島南部(沖永良部島以南)を領土に組入れ、1429年頃には山南(南山)王の他魯毎を滅ぼして三山時代に終止符を打ち琉球を統一しました。第一尚氏の始まりです(なお、1429年は統一した年ではなく、山南国の使者が明に最後の朝貢船を派遣した年で、この年までは山南王国があったと推測されている。(ただし近年では1422年頃にすでに尚巴志の統一は済んでおり、従来との継続性から1429年に山南名義で朝貢したという説が有力です)。

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