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18 2015/2

この時代の沖縄はどんな国だったんでしょうか・・・。

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沖縄貝塚文化

貝塚時代は、縄文時代にあたる貝塚時代前期と、弥生時代から平安時代にあたる貝塚時代後期に大きく分けられます。前半については本土の縄文時代中期頃から遺跡がみられるようになります。狩猟採集経済で縄文土器に類似する波状口縁の土器をもつことなどから「縄文時代」の名称を使用する場合もあるが、縄文時代・縄文文化とするかは意見が分かれます。後期は、海岸砂丘上に遺跡立地が移動し、主に漁撈を中心とした生業と考えられています。弥生時代の特徴に稲作(水稲耕作)があげられるが、現時点で弥生時代にあたる時期の水田はみつかっておらず、農耕がはじまるのは貝塚時代後期の末である。弥生土器など弥生時代の遺物の流入はみられるものの、弥生文化の影響はあまり見られず、むしろ独自色が顕在化する時期です。また貝の道と呼ばれる、貝輪などの貝製品の材料となる南西諸島に生息する貝を日本本土へ(遠くは北海道まで)大量に運ばれたことが知られています。また、奄美地方では螺鈿細工の原料となるヤコウ貝の集積地が存在し唐代貨幣(開元通寶)が発見される事から九州地方の商人の活動が推定されています。

縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古諸島・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られます。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られます。これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられます。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。約800年前ごろになると朝鮮様式窯によって焼かれた徳之島産のカムイヤキや長崎産石鍋やそれを模倣した鍋形土器などがみられるようになり、本島地方と近しい文化をもつようになります。

古代史では、『続日本紀』の記録として、714年(和銅7年)に「信覚・球美」などの人々が来朝したと記されています。新井白石は「信覚」は石垣島、「球美」は久米島に比定しています。また753年(天平勝宝5年)には鑑真が渡航の途中「阿児奈波島」に漂着したとされ、これは沖縄本島のこととされる。これ以後の沖縄の名称は長らく記録から消えます。これらの古代史料から、7世紀から8世紀にかけての南西諸島社会は身分が形成され階級社会へ向かっていたとする説や政治的社会が形成されつつある社会との説が出されています。

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