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12 2015/2

沖縄の歴史【舜天・英祖王統】

【舜天・英祖王統】

699年、続日本書紀に種子島、屋久島、奄美、徳之島から朝廷に献上品があった事が記載されています。

別の記録に、618年流求人約30人が大和に帰化したとの書かれてあり、大和朝廷との文化交流は有ったものと思われます。
720年頃には大和朝廷が南島(沖縄)人に位を授けたとの記録もあります。
753年には、遣唐使の船が沖縄に漂着し、阿兒奈波と言う名前が始めて大和の国史に登場します。

後に、遣唐使船は何度も沖縄に漂着したようで、交流も深まっていきました。

894年に遣唐使が廃止され、日本の国内は武士の台頭でとても沖縄どころではなく、

日本と沖縄は100年くらい交流が閉ざされていました。
この頃に沖縄独自の琉球語が確立されたものと考えられています。
ですから、今でもその当時の大和言葉の子音、漢字の読みがウチナー口に残っています。【小・グァー、東風・コチ、北・ニシ、南・ハエ 等】

さて、894年に遣唐使が廃止されて以来、日本国内では1156年の保元、

平治の乱まで戦乱が耐えない時代が続きました。 この乱で敗れた源為朝が沖縄の今帰仁に上陸して、

南部にある大里の按司の妹と結ばれ、一子をもうけてから伊豆大島に帰っていったとの言い伝えがあります。
中山世鑑 出典は中山世艦(1650年向象賢著)です。
真偽の程は定かではありませんが、その子供の名前を尊敦としています。
彼は成長してから15歳で浦添の按司となり、

その6年後に(注)天孫氏25世の尚寧王を謀殺した逆臣の利勇を討ち、周囲から押されて浦添で王位についたのは、源頼朝が征夷大将軍となる5年位前のことでした。

1187年、彼は名前を舜天とし、琉球史にはっきりと残る最初の王統舜天王統の第一代目となったのです。
ここで「じゃあ、天孫氏25世の王って出てきているのはなんで?」と思われると思いますが、

日本の天皇の歴史にも天照大神からの国作りの神話があるように、

沖縄にも初めに日の神様から命を受けたアマミクという神様が琉球の島々を作り、

そこに一組の男女を下らされたと言う神話があり、初めの彼らが統治者の初代で天孫氏1世というわけです。

良い政を行い次第に支配力を強めていった舜天は、1238年72才の時に死亡。
2代目は舜馬順煕、3代目は義本でした。
義本が即位したのは1249年44歳のとき。

義本王の時代には運悪く沖縄に大飢饉、疫病が蔓延し死者が多数出たので、

やさしいく責任感の強い王は、自らの徳の無さが原因だとと思い、王政を任せる摂政を探し始めました。
家臣達は天孫氏の末裔で、母親が太陽を宿す夢を見て懐妊し、

幼い時にはテダコ(太陽の子供)と呼ばれた英祖を推しました。
彼が摂政になって数年のうちに災厄は無くなり民心も彼を慕うようになると、

義本王は、自ら王位を彼に譲り、城を抜け出して一人で立ち去りました。これが義本54歳の時です。
それから英祖王統の始まりです。
英祖は農業に力を入れる政策を推し進め、租税の公平化をはかり、国力も徐々に充実してきました。
このころ、日本では元寇が起こり、文永、弘安の役(1274,1281)で日本上陸に失敗した元軍は

1291年、沖縄に上陸しようと試みたが英祖の軍に撃退されました。

浦添ようどれ●沖縄の那覇市の隣に浦添市があります。多分古琉球の首都だったと推測されているところです。市の東側に隆起珊瑚礁の高台があり、かつての城跡がわずかな石垣を残しています。この側に岩を大きくえぐって作られたお墓があります。
後の英祖王と、前出とは同名別人ですが、第二尚氏王統7代目の尚寧王のお墓で浦添ようどれと呼ばれています。

この英祖王統の後継は大成、英慈と続き、平穏なときが流れました。
しかし、4代目の玉城は、酒色におぼれ道楽三昧の生活をおくっていたので、家臣、民衆の心は彼から離れ、勢力圏はおおむね三つに分かれてしまいました。
南部の知念、摩文仁、喜屋武、具志頭その他は南山王と呼ばれていた大里按司。
北部の国頭、羽地、金武その他を北山王と呼ばれていた今帰仁按司が各地域を支配していました。そして玉城の支配地は那覇、浦添、中城、読谷などになってしまいました。
この頃は沖縄でも、互いに領地の取り合いで、争い事が森川公園の湧水絶ない戦国時代だったのです。
1336年玉城王は41歳で死亡し、西威王が後を継ぎましたが、彼はまだ10歳。 実質的には彼の母親が政権を握ることになったのです。
しかし、公平とは言いがたい施政に、多くの部下達は王以外の一人の人物に注目しました。
これが、現在宜野湾市森川公園の中にある泉にまつわる天女の子供といわれる察度(さっと)です。

注)天孫氏は沖縄の伝説的存在で、現在の歴史書では存在を扱っていません。日本史におけるいくつかの歴史書と同様、中山世艦も、物語的な側面があります。

参照URl http://www.okinawainfo.net/rekisi/syunten.htm

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