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2015/1
綺麗な沖縄です^^
琉球処分から第二次世界大戦まで
近代以後も沖縄県の物資集積地、商業都市として繁栄し、海が埋め立てられ那覇は完全に地続きとなりました。だが、1944年10月10日の十・十空襲と、1945年4月から始まる沖縄戦により市街地は完全に破壊されました。
- 1879年(明治12年) – 沖縄県庁を設置。以降沖縄の行政の中心に。また、それまで那覇四町と呼ばれていた西・東・若狭・泉崎へ、新たに泊・久米・久茂地を編入。
- 1896年(明治29年) – 沖縄県区制の施行により、那覇区となりました。
- 1903年(明治36年) – 島尻郡真和志間切から牧志村、小禄間切から垣花地区(湖城村と儀間村の一部)を編入。
- 1908年(明治41年)4月1日 – 島嶼町村制施行に伴い、周辺の各間切が町村に。
- 1914年(大正3年)- 島尻郡真和志村から壺屋地区を編入、新規埋立地を旭町と命名し編入。
- 1921年(大正10年)5月20日 – 特別区制を廃止し、市制を施行して那覇市となります。
- 1921年(大正10年)12月19日 – 市章を制定する。
- 1944年(昭和19年)10月10日 – 那覇を中心とした沖縄県への米軍の大空襲(十・十空襲)により、壊滅的被害を受けます。
- 1945年(昭和20年) – 太平洋戦争での空襲および陸上戦(沖縄戦)により街が壊滅。首里城も破壊された。米軍の全面占領下となり、立入禁止に。
第二次世界大戦以降
戦後は、旧那覇市中心部は米軍の管理下に置かれ、軍施設から1マイル以内は立ち入りが許されず、住民の多くは県北部の収容所に移されていた。生活物資不足の解消のため、1945年11月、那覇市壷屋地区の窯業関係者たちがまず帰郷を許され、103人の職人が入市。さらに12月には牧志地区の瓦職人ら136人が入市しました。続いて家族や親類縁者が移り住み、これにまぎれて許可のない住民も次々と那覇に住み着いたため、壷屋から新県道(現在の国際通り)の一帯に次々と集落が生まれ、闇市も自然発生的に拡大しました。
こうした中、住民の高良一が米軍と直接交渉し、米軍の物資集積所があった新県道沿いの土地(現在のてんぶす那覇あたり)に1948年1月ごろ、映画館「アーニー・パイル国際劇場」を開館させました。以後、周辺は商業地として急速に発展し、新県道は「国際通り」として「奇跡の1マイル」と呼ばれるようになります。